……銃声がする。
暗く厚いコンクリートの床を震わせる轟音。上村は、あんな風にヒステリックな銃の撃ち方はしないと思う。たった一匹の得体の知れない何かに怯えるように無数の銃が叫び、恐怖にまみれた静寂のあとでまた奇声をくりかえす。あれはまだ死んでいないのだ。沈黙そのものがあれの存在であり、あれが健在してこちらに向かっている証なのだろう。道を遮る者たちの命を静かに、ことごとく奪いながら。
古びた電球が一つしかない生々しい部屋の中で、俺は倒れたまま古い壁時計を視界の端に認めた。六時四十分。
「あ、死んじゃったかな。寝るなよお」
一人三発ずつだったからもう三十発以上拳や蹴りを食らっている。パンツ一枚に剥かれた体に真っ赤な鬱血の痕が大量に残っていた。全身を責めさいなむ苦痛に意識がすっかり霞み、鼻血や嘔吐物で気道が詰まりそうになって咳き込むのが精一杯だった。顔を上げさせるために俺の髪を鷲掴みにしている寺内の顔は、昔のそれよりもさらにギャングのものへと近づいたようだ。
「お前もさ、馬鹿なことしたよな。あのままいっしょに運び屋の仕事やってたら、俺のようにのし上がれたのに」
フィリピンで何十人もの子分を従えて、ギャングと手を結んで、立派に一業者として密輸をとりしきる。一歩間違えればそれは俺の地位だったのかもしれないけれど。
「……日本で偉くなれなかったからこっちへ来ただけだろう。でも、お前なんかに這い上がれやしないよ。頭、悪いもんな」
息も絶え絶えの、しゃがれた声。
頭の中でごうんごうんと大きな音を立てて銃声が反響していた。寺内が乱暴に俺の頭を地面に投げつけ、立ち上がって俺の視界から消える。どうも服もろとも精神的な守りまで持っていかれてしまったようだ。全身の素肌で触れている床がまだ震えていた。何となしにあれが来るから起きていなくてはいけないと、そんな思いが血液にのって体を巡っている気がした。
「殴ったり力入れたりするの、疲れるんだ。あとはこいつでな」
寺内は朦朧としている俺の視界に太い針の束をひけらかす。捻じ曲げられた真鍮製の、貨物用の安全ピン。それは俺の腕にずぶずぶと垂直に突き刺さってゆく。腕の筋肉の中の異物が神経に触れ、痛覚が止められなくなる。
冷たい床から全身に響いてくる地鳴りが、どうしてこんなにも自分の意識を繋ぎとめるのか俺には解らない。こんなひでえ目に遭ってるのに気絶もさせてくれないなんて、何て奴だ。最低で最悪な。
銃声がまだ遠い……。
夜のとばりが降りた港の貨物置場に空を裂くような銃声と閃光が乱発していた。恐怖を振り払うために放たれる気違いじみた怒声はすべてタガログ語の羅列で彩られている。二十人近くいた下っ端の男たちは一人また一人と倒れ、今やその数を半数近くにまで減らしていた。
音もなく、姿もない”化け物”との戦いは困難を極める類のものだ。それは相手の実際の数量を遥かに上回る恐怖との戦いでもある。そしてもし下っ端の一人がそいつを見つけたとしても、大方はその成果を無駄に終わらせるような形で死んでいくことになる。
「……」
上村は誰かの視界に入る時にはもう銃を構えている。三人組で固まっていたその時の相手から上村は自分を見た人間を正確に選び出し、次の瞬間にはそいつの頭を打ち抜いて息の根を止めていた。そうして他の二人が虚を突かれている間に、消えている。
「――警察が入ってきませんね。いい加減入ってきてくれてもいいようなものですけど」
「港の倉庫でデカい音が鳴ったくらいで警察は来んよ。”そういう風になっとる”」
「……ふーん」
上村たちは俺が向かったことになっている港の事務所に向かうのに思っていたよりも長い時間を割いていた。上村一人なら十分もあれば辿り着けただろうが、上村には爺さんとティモンを守る役目がある。この少数では離れて行動するのは得策とはいえなかった。
「あの人たち、何て叫んでるんですか」
「『てめえ、この野郎』『よくも弟をやりやがったな』『もう我慢』――」
近くで木製のコンテナが爆発し上村たちの所まで中身の酒瓶もろとも破片が吹き飛んでくる。明らかに一秒に三発以上の速さで鉄のコンテナに横一線の銃創がついていく。
「……最近のギャングってのはたかが外国人と、老人と、子どものためにサブマシンガンなんか持ち出すようになったんですね」
怒声がだんだんこちらへと近づいているのがわかった。
「ウエムラ、見つかったようだよ」
爺さんは半ば諦めた表情になり、今生の別れのつもりでそばにいるティモンを抱きしめている。ティモンは張りつめた顔のまま返事をしなかった。手に握りしめたままの拳銃や、男どもの怒声や銃声。昨日まで側にいた人間があと数分で死ぬかもしれないという現実。ティモンは大きな瞳をさらに見開いてそれをありのまま見つめている。
「弱気になられては困りますよ。ご老人」
爺さんが上村の方を見ると、上村は短いながらもしっかりと微笑した。何も言えないでいるティモンにウインクまでしてみせた。
――大丈夫。ちゃんと守るよ。
ティモンが驚いてますます言葉を失っていると上村はそのままコンテナの陰から一人外へと飛び出し、ただ一丁のワルサーP38を頼りにサブマシンガンの弾幕の間をすり抜けて敵の方へと向かっていった。それがエージェントという人種なのだとティモンが理解するのと上村が首尾よく敵を仕留めるのと、どちらが早かったか。
「ロロ」
悲痛な絶命の叫びが上がる。間違いなく上村以外のものが二つ。ティモンはその声を聞くたびに体の芯から震え上がる。
汚れた返り血にまみれ、誰よりも冷血な顔で人を殺す。冷血であるが故にどこか無垢な男の顔。
「ウエムラは、何で人を殺すんだろう」
少年の答えに答えられるものは誰もいなかった。
さて、俺の方はというと寺内が拷問を安全ピンに切り替えたあたりからいよいよまともな記憶がなくなり、気を失う前に舌を噛んで死にそうな状態を何度か味わう羽目になった。うつぶせに倒れたまま上から男たちにのしかかられ、腕と手首を押さえつけられ、俺の指と爪の間の肉に曲がった針が突き立てられてゆく。腕の同じ傷に何度も安全ピンを抜いては刺され、抉られる。両腕でそんなことがばらばらに何度となく行われた。俺の腕は針が触れるだけでびくんと震え、あちこちの傷跡から幾条もの細い血を流していた。
一生分の悲鳴を全て出し尽くしたような長い時間の後でヒステリックな銃声と断末魔はとうとう建物のすぐそこまでやってきた。
「……」
寺内の言葉も、聞いてはいたが理解できなくなっていた。俺を押さえつけていた男たちがあわただしく部屋を出ていき、寺内が針の束を置いて俺の口に固い何かを押し込む。スチールの苦い味が血と混ざって苦かった。
廊下で最後の轟音がする。それは不気味に人を呑んだ。
漠然とあれがここまでやってきたことを悟り、安堵する。俺はそこで気を失った。
倒した相手からせしめたUZIとワルサーP38を駆使して上村が事務所のドアを開けると、そこには必死の形相をした寺内が気絶した俺の口に拳銃を突っ込んでわめいていたらしい。
「動くな、銃捨てろ。こいつ殺すぞ」
後から入ってきた爺さんとティモンが息を呑む。両腕と両手二本ずつの指に曲がった無数の安全ピンが深々と埋まっていたそうだ。満身創痍の姿のままぐったりしている俺の姿に二人とも「ナリタ」と叫んだそうだが、俺からの反応はなかった。
「大事な仲間なんだろう。俺を無事逃がしてくれたら、返してやるよ。銃捨てろ」
銃を捨てようとした二人に上村が「捨てなくていい」と怒鳴る。上村は右手のUZIに手を掛けたまま微動だにしない。誰も動かない中で時計の針だけが進んでいき、その場の空気は針の進む音と共に急速に引き絞られていった。
「何だよ。こいつが死んでもいいのか? え!?」
「どうぞ」
冷ややかだが凄みのある声だった。上村はUZIの引き金から指を離すことなく、動揺している寺内を見据える。怒気と絶対零度の殺意の入り混じった視線に絡めとられる。
「殺せばいい。僕も貴方を殺すだけだ。”それ”に傷一つつけても殺す」
たった一つの出入り口を背にしてサブマシンガンを構える上村。その両脇で実弾の入った拳銃を構えている爺さんとティモン。
「そこまで愚かな人とは思いたくないのですがね」
今や形勢は完全に逆転していた。寺内は上村の凍りつくような目に射すくめられ、自分に選択権のないことを悟るしかなかった。
しかも、だ。
上村は微笑んだ。穢れなど知らなさそうな冷たい顔で。
それは、どちらかといえば邪笑に近かった。
凍てついた瞳と凄まじいまでの気迫とがあいまって頬が紅潮している。強い感情が冷たい殺人機械と絡まって妖しく微笑む。
「十秒だけ殺さないでおいてあげましょう。その間に逃げ切れたら、見逃してあげます」
強者の仕掛けたゲームに勝利することでしか生き延びられない、そういう場面は存在するのだ。寺内にとってそれが今だった。寺内はずる賢い頭脳をできる限り冷静に使ってそのゲームに勝利しようと腹を据える。
「本当か? 十秒だな?」
「ええ。それじゃあいきますよ。
一……二……三……四……五……」
上村のカウントと共に寺内は俺から銃を抜いて走り出した。爺さんやティモンの横を突っ切り、扉の外へ。
上村のUZIがカウント中に火を吹いたのはその時だ。弾は寺内の足を横一直線に縫い取り、男の体を地面へと叩きつける。寺内が自分に起こったことに気づいて悲鳴をあげ元来た方向へと銃を乱射していたが、一つとして当たらなかった。
「……六……七……八……九……十」
その時もしも俺が起きていたら、俺はやはり奴を鼻の悪い奴だと言っただろう。寺内の銃に空撃ちの音が響きわたり、上村は銃をワルサーP38に持ち替えて彼のもとへ歩み寄っていく。寺内は十秒の間だけ殺されずに済んだ。ただそれは、奴にとって幸福だったとはいえない。
「逃げ切れませんでしたね。さようなら」
熱もなく感情もない。まぎれもない殺人機械の顔。これから死ぬ人間にだけ見せる顔だった。言外に上村が失望したことを寺内は悟ったかもしれない。
”面白くなかったよ”と。
顔にバケツ一杯の冷水をぶっかけられて俺が目を覚ますと、そこには何事もなかったかのように溜め息をつく上村の姿があった。
「……ああ」
来たか、とそのまま寝てしまいたい気分だったが上村は寝かせてなるものかと不機嫌を全面に押し出した面で俺の顔をじっと覗き込む。
「あんまり手間かけさせないでくれますか。本当に使えない人ですね」
「……うるさい。お前が助けに来るのが遅い」
さまにならない。ボコボコにされて全身痣だらけの上パンツ一枚。体のどこをどう動かしてもどこかしらの傷口に障って痛む。
「おれの服……」
腕を伸ばそうとして、刺さっていた凶器が全て抜かれていることに気づいた。上村の手で抜かれた針は部屋の隅にまとめて置かれ、二十本も三十本も無造作に折り重なってまだ血も乾ききっていないままにいびつな光をさらしていた。上村は特別何も言わない。黙って俺の手の届く場所に衣類を置いてそれ以上は手も貸さずにさっさと他の場所へ行く。
「船に乗ったら抗生物質と解熱剤を貰っておくことだ。骨は折れてないですがひびは入っているかもしれません」
丈夫で良かったですねと、それだけ。命懸けで拷問に耐えた人間に対する態度とは思えないそっけなさだった。
「待てよ」
「まだ何か?」
「腕が動かねえ。手貸してくれ」
「自分でおやんなさいな。骨が折れてないんだから動けるでしょう」
やはり腕を傷める前に一発殴っておくべきだった……改めて自分がこの男をいかに気に入らないかということを再確認して、俺は起き上がる前に小声で毒づいた。
「最悪だなお前」
そのまま自力で渾身の力を振り絞って体を起こす。体は動いた。痛みと可動性は単純には比例しない。人間の限界というものは気力次第でどうにでもなるらしかった。何気なく周りを見回してみると、事務所の入り口の方で寺内があっけなく倒れたまま血の海の中で絶命していた。一歩間違えばあれが俺の運命だったのだろうか。
俺と上村は今回たまたま死んだ寺内の死体に見入っていた。そういう世界だ。明日は、あるいは数分後には我が身。静寂の中に時計の針の音だけがちくちくと響きわたっていた。
「The Agents Vol.3 / ジャンク屋にて」